2021年09月21日

自転車に絡まる

自転車に絡まる
自転車ってつる性の植物にとっては、絡まりやすくて格好の餌食ですよね。これはよく見ると、自転車は新しくて長く放置してあるとは思えないのですが、こういう状態になっています。後ろにもう1台自転車があるのですが、そちらは明らかに植物の置き場になっているようです。
大田区上池台3丁目、学研通りの裏の路地で発見しました。
posted by エダヤスオ | Comment(0) | 写真>┴空地/植物繁茂
2021年09月18日

荏原金刀比羅神社

荏原金刀比羅神社
品川区荏原1丁目にある荏原金刀比羅神社です。桐谷通りの近くで、中原街道に面して建っています。首都高2号目黒線荏原入口近くです。表側は、比較的コンパクトにぎゅっとまとめられた、普通の佇まいの神社ですが、裏から見ると比較的大きい鉄筋コンクリート製の建物であることが分かりますね。
1772年(安永元年)高松城主、松平頼久の命により、家臣岡田友次郎永清が象頭山金毘羅大権現の分霊を勧請して創建しました。1930年(昭和5年)当地へ遷座しました。
商売繁盛、家内安全はもちろんですが、海上安護のご利益があります。元々、高松港の安全を祈願したものですからね。
posted by エダヤスオ | Comment(0) | 写真>┴神社仏閣
2021年09月15日

上池台5丁目の庚申塔

上池台5丁目の庚申塔
大田区上池台5丁目にある庚申塔です。猿坂の上の方で、池上本門寺から夫婦坂を通って中延方面に行く古道の途中です。庚申塔は道案内の役目もあります。1723年(享保8年)建立、駒型で、上に日月、下に三猿が刻まれています。「南無妙法蓮華経」の文字もあり、日蓮宗の池上本門寺の影響ですかね。
こういう記事を書くときに、グーグルのストリートビューで必ず位置の確認をするのですが、2020年3月の写真にはないので、新しく設置されたようです。そういえば、堂宇が新しいです。後ろの民家を建て替えたので、位置を少し移動したようですね。2018年まであった以前の家では、少し右の電柱のあたりのブロック塀から少し奥まったところにありました。本来の位置の角地に移動したようです。
坂下にある「猿坂の祠」はこちら
この古道の先にある中延5丁目の「天明三年銘石造道標」はこちら
2021年09月10日

イグノーベル賞2021

日本人枠があるというのは本当みたいですね。15年連続受賞です。

生物学賞:「猫の鳴き声からネコ語を解析、ヒトと猫の会話を模索したこと」

生態学賞:「様々な国の歩道に吐き捨てられたチューインガムに存在する細菌を遺伝子分析したこと」

化学賞:「映画を見た観客の匂いから、映画のバイオレンス度などを測定」

経済学賞:「政治家の肥満は、その国の腐敗度を示す優れた指標でありうる発見」

医学賞:「性的オーガズムには鼻炎薬と同様に鼻呼吸を改善する効果があるという実証研究」

平和賞:「人間のあごひげはパンチから顔を守るために進化したという仮説の検証」

物理学賞:「なぜ歩行者はいつも他の歩行者とぶつからないかを明らかにした実験」

動力学賞:「なぜ歩行者は時には他の歩行者とぶつかってしまうのかを明らかにした実験」

昆虫学賞:「潜水艦でのゴキブリ退治の新しい方法の研究」

輸送賞:「サイを上下逆さまな状態で空輸することが安全かどうかの実証研究」

京都工芸繊維大学の村上久助教授らが「動力学賞」を受賞しました。スマートフォンを見ながら歩く人がいると、集団全体の歩行速度が遅くなることを実験で突き止めました。

他の賞に関しては、どこの国の研究者か資料がありませんでした。気になる研究がいくつかありますね。
10兆ジンバブエドル紙幣と、PDFデータの手作り歯車トロフィーが贈られます。
posted by エダヤスオ | Comment(0) | ノート>ニュース
2021年09月08日

沖田総司逝去の地(内藤町)

沖田総司逝去の地(内藤町)
新宿区内藤町、外苑西通りの大京町交番前交差点の西側です。奥が信濃高遠藩主内藤家屋敷だった新宿御苑で、手前を流れる旧玉川上水の余水吐(渋谷川)に池尻橋がかかっている場所でした。すぐ左に植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷がありました。新撰組隊士、沖田総司が晩年に療養し、亡くなったとされる場所です。石碑等はなく、左の紫陽花の中に案内板があります。
沖田総司は、1842年(天保13年)(1844年説もあり)白河藩江戸屋敷詰めの足軽の長男として白河藩屋敷(現、西麻布)で生まれました。1863年、浪士組結成に参加して京都入り、分裂後に新撰組を結成、一番隊組長となり、芹沢鴨暗殺、内山彦次郎暗殺などを手がけました。池田屋事件では、近藤らとともに最初に踏み込んだらしいです。その時に、喀血したとされ、戦線離脱しています。1865年、総長の山南敬助が脱走した事件では、山南の切腹の介錯をしています。体調が悪化してからの活躍はなく、鳥羽伏見での敗戦後、江戸に戻り、植木屋で療養していました。1868年(慶応4年)20代半ばで亡くなっています。肺結核でした。
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